セミコロンの向こう

ピリオドじゃありません。どっか別のところ行っちゃってます。本人もどこに行くかさっぱり分かってません。

2018-07

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「個人」は解放されるべきか否か

individual
Individual means relating to one person or thing, rather than to a large group.」(『COBUILD English Dictionary』Collinsより)

個人
「国家または社会集団に対して、それを構成する個々別々の人。単一の人。一個人。私人。」(「広辞苑 第五版」岩波書店より)


この概念は、今現在、もう日本に馴染んだのだろうか?
日本に最初に入ってきたとき、この言葉を日本語に置き換えたのは、確か夏目漱石だったと思う。
彼は、この「個人」、つまりindividualということについて一生かけて考え抜いたんではないのかと思うのだが。
『私の個人主義』という題目で公演もしたことがあるらしい。

兎にも角にも、海外(特に欧米)からこの概念が「輸入」されたのは、ほぼ間違いないだろう。
それまでの日本は「没個性」とでも言おうか、集団を最優先させること、というよりむしろ、「私」はほぼ無いようなものだったんじゃないか…?
親が連れてきた相手と結婚したり、ある程度の年齢になったら稲刈りに参加したりするのは「当たり前」だった時代には、そもそも反抗期なんてものは無かったんだろう。
考えてみれば自分を主張する根拠が無い以上、はね返りをしようとも考えないと思う。
親が子供に教育(という名の押し付けかもしれないが)をするときの根拠は、「俺もそういう風に育てられたから」ということなのだろう。
代々そうなんだから、逆らうなんて考えるんじゃねえ、そういうことなのかもしれない。
悪い方に転んでしまったら、それは自分の責任じゃなくて、世間がそういう時代だということを、肌で感じていたのだろう。
「五人組」という制度も、この文化における象徴的なものなんじゃないか。
お隣の国のように、統治者がコロコロ変わったりしなかったのも、ある意味では統制されていた面があるからだろう。

逆に、欧米を中心とした国々では、この「個人」という概念が昔から根強くあったようだ。
それもそのはず、キリスト教では神様から常に見られているから、一挙手一挙動全てが、自分の物として認知される。
他人との関係というよりもむしろ、神との関係の方が強い、と考えている人がかなりいるんじゃないかと思う。
自分の行動は、全て自分にはね返ってくる、結果は結果で自分が全て引き受けなくてはダメだ。
自己実現、自己責任、自己決定、自己管理、自己……。。。

どちらが良いとか悪いとか、そういった優劣を付けるつもりは更々無い。
どちらにも一長一短がある。
「個人」という概念が輸入された以上、「自分」というものを規定する、いわゆる「アイデンティティー」が叫ばれるようになり、さらにはそれを確立できない青年たちが「自分探し」などと言って、進路選択を自分で選んで、自分が本当にやりたい仕事こそ自己実現の第一歩だという語り方がなされるようになる。
少なくとも、今現在の学校教育は「自分で進路を選んで、本当に自分のやりたいことを、自分の責任の下にやるんだ」という励まし方をしている。
間違っても「親がここに行けって言ってるから、ここにしなさい」とか、「就職率が大学卒の方が良いからそっちにしなさい」とかいう指導方法は、あまりメジャーではないと思う。
もう一度言うが、優劣とか正誤を決めるつもりも無いし、そんなものも無いと思ってる。
このバランスが傾きだすと、危険だなとは感じるけれど。
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